IE9ピン留め
あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。

例年よりも短いお正月だと言われているが、新年4日から営業開始といっても、街もひとのアタマも、半分寝ボケているんじゃないでしょうか。

紅白歌合戦は大半、寝転がってラジオで聴いていたが、「超ミニスカートで美しい脚をアピールします」などというアナウンスが耳に入るとテレビの前に飛んで行きました。まあそういう種類の興味だけでは5時間も持ちませんから、つまらんところははしょってつきあっていました。脚線美をアピールするのに何で歌をうたって踊るのか、関係がよくわかりませんが、ほろ酔いで、こういうことをいちいち分析しないのが大晦日の特典とも申せましょう。男は視覚の動物。四角い動物じゃないよっ。

うちのまわりは実に静かな新春で、人も車もほとんどいませんでしたが、初詣でに出かけたら、ざっと見て、去年の倍ほどの人であふれていた。元日の午後3時半ごろです。今日、その神社のすぐそばに用があって出かけたが、参拝客と思われる老若男女が列を作って歩いていた。お年寄りだけでなく、若年層も混ざっていたということです。人口の多さで言えば、今年はナンバーワンではないか。

毎年、初詣でに行くと神楽太鼓が鳴っていて、おじいさんたち(神主さんです)がお祓いをしてくれます。高感度のいいおじいさんを見つけたので、ここ数年はこのひとにお祓いしてもらってますが、91才とのことで、新年からおつとめ御苦労さまです。

すこしゆっくりしてみよう。去年の秋あたりからそう思い始めたので、日常、今年も引き続き「ゆっくり」を考えます。
ひとまずこのへんでアップしますね。

# by natsuki_emura | 2012-01-04 23:49 | Trackback | Comments(0)

大晦日です。寝坊しました。

DVDを1週間ほどかけて作って、友達に渡したあとで、1か所、音声にクリックノイズが乗ってることがわかった。これをどうにか取り除きたいから、きのうはそのノイズの由来を調べて、だいぶ苦闘して可能性をひとつに絞った。プロ用機材も持ってないし、映像の編集なんて勉強したこともないから、しろうとが手探りでやっているんですよ。だいぶ苦肉の策である。音声の一部入れ替えは、技術的にそれほど面倒なことはないが時間がかかるし、くたびれる作業だから、大晦日の今日やるのはやめましょう。年が明けてからにしよう。

天皇陛下もおっしゃっているように、今年はなんだか「つれえ1年」だった。ながく記憶に残る1年ということでもある。言葉にならない苦労というものがかなり膨大だったんじゃないでしょうか。

9月からひと月ほど、作曲をやった。きのう、そのときのメモを見て、書かずに捨てた、つまりモノにならなかった楽想のこま切れが、最終的に形になった曲とは全然関係のないことだったりして、それはそれで面白い。曲ができた軌跡をたどると、ずいぶん蛇行している。脇道へそれるということも必要なのでしょうね。

この年末は、ジェイコブ・ドラックマンというアメリカの作曲家の曲を聴いていた。日本では知名度が低いこの作曲家についてなにか書きたいが、たぶん長くなるので、年が明けてからにしよう。

自分的には、今年は確かに「つれえ1年」には違いなかったが、それなりに充実していたと思う。焦らず邁進しましょう。

そういうわけで、今年もあとわずか。
来年も元気でいい年にしましょう。

# by natsuki_emura | 2011-12-31 16:35 | Trackback | Comments(1)

この界隈では旨いと定評のあるラーメン屋で、一昨日、昼飯を食べた。何にしようか迷った挙句、坦々麺に決めた。タンメンが逸品ですが、ここひと月のあいだに2回食べているので、別なのにしようと思いました。具と麺を平らげたあと、残ったスープに余韻があって、蓮華でちょっとずつすくって、舌の先で転がすのが楽しかった。

この店のトイレに入ったのは初めてだったと思う。そうしたら、目立つところに、

当店のトイレを
きれいにお使いいただきまして
ありがとうございます。

という張り紙がしてあるのが飛び込んできた。さすがだと思いました。「備え付けの紙以外を流さないでください」というように、なにかを「しないでください」と書いていないところに感心しました。出先であちこちのトイレに入るが、こんな懇切な貼り紙が出ていることはめったにない。胸のすくような心配りである。

坦々麺も接客もよくて、すがすがしい気持で店を出た。





# by natsuki_emura | 2011-10-31 06:00 | Trackback | Comments(0)

歌手の小椋佳さんが故郷の小学校を訪問し、生徒たちに自己紹介の絵(だったと思う)を描いてもらい、何を描いたか説明させる、という場面を、以前、NHKの『課外授業 ようこそ』という番組で見た。そのなかで、ある男子生徒が、自分の特徴を描いているつもりが、途中でよくわからなくなったから、適当なことを描いて埋めました、というようなことを言った。ぼくは、そのときの小椋さんの印象的な反応をよく覚えている。「わからなくなった、それ大事なことだよ」と、ひとことだけ、彼は言ったのです。

心当たりのある人も多いと思うが、ぼくたちはいろんな教育の現場で、わからないことがあったら調べたり勉強したりして、わかって説明できるように方向づけられたことが多いはずである。わからない、というと叱られたりした。ものがよくわかることが優秀、というひとつの価値だったことは多いのではないか。

もちろん、ある事象について筋の通った説明ができること、筋道に従って論理的に物事を理解する能力はどうしても必要ですよ。見渡す限り不可解な世の中ではたまったものじゃない。しかし、だからこそ、わからないということに対する一定の理解が必要なのだと、あえて言いたい気がする。それを、このブログに書きつけておこうと思いました。

これで思い出したことがある。「非文」というのは論理言語学の用語で、いかにも文章のように文字が並んでいるが、読んでみると意味がわからない、つまり文章になっていない文字の列、のことだそうです。
ある文字列が文章でないことは、感覚的には容易にわかる。正しい言語感覚の持ち主なら、その文字列の意味するところがわからないということがわかるわけです。
しかし、「ある文字列が非文であることは証明できない」ことがすでに証明されている、のだそうで、つまり、その文字列が非文かそうでないかは、理論的に判別することができないということです。

もし、その非文を使ってコミュニケーションができるような集団があったら、ほかの集団とは意思の疎通ができないことは容易に想像できる。わけがわからないことは、わけがわからない。つまりそういうことになります。

しっかりした言語感覚は、筋の通った論理に裏打ちされている。
しかし、現実には「わからないこと」が複数存在するので、ぼくたちはときどきアタマが混乱したりしますね。そんなとき、その「わからないこと」を分析して理解しようと思ったって、そもそもわからないことは分析できない。「理解しにくい」と言ってもいいかもしれない。小椋佳さんは、その、わからないことの世界があることは大事だと、小学生に入れ知恵したんですね。

この主題をめぐっていろんな話ができるが、今日は、これに対するぼくの興味を提示するにとどめて、この雑文を締めくくることにします。

# by natsuki_emura | 2011-10-15 21:09 | Trackback | Comments(0)

えーと、サイト「太鼓堂」を更新しました。

今月はブログを書かなかったけど、サイトで雑談しましたんで、寄ってください。

んじゃー、来月!

# by natsuki_emura | 2011-09-30 23:19 | Trackback | Comments(0)

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