わけがわからないこと

歌手の小椋佳さんが故郷の小学校を訪問し、生徒たちに自己紹介の絵(だったと思う)を描いてもらい、何を描いたか説明させる、という場面を、以前、NHKの『課外授業 ようこそ』という番組で見た。そのなかで、ある男子生徒が、自分の特徴を描いているつもりが、途中でよくわからなくなったから、適当なことを描いて埋めました、というようなことを言った。ぼくは、そのときの小椋さんの印象的な反応をよく覚えている。「わからなくなった、それ大事なことだよ」と、ひとことだけ、彼は言ったのです。

心当たりのある人も多いと思うが、ぼくたちはいろんな教育の現場で、わからないことがあったら調べたり勉強したりして、わかって説明できるように方向づけられたことが多いはずである。わからない、というと叱られたりした。ものがよくわかることが優秀、というひとつの価値だったことは多いのではないか。

もちろん、ある事象について筋の通った説明ができること、筋道に従って論理的に物事を理解する能力はどうしても必要ですよ。見渡す限り不可解な世の中ではたまったものじゃない。しかし、だからこそ、わからないということに対する一定の理解が必要なのだと、あえて言いたい気がする。それを、このブログに書きつけておこうと思いました。

これで思い出したことがある。「非文」というのは論理言語学の用語で、いかにも文章のように文字が並んでいるが、読んでみると意味がわからない、つまり文章になっていない文字の列、のことだそうです。
ある文字列が文章でないことは、感覚的には容易にわかる。正しい言語感覚の持ち主なら、その文字列の意味するところがわからないということがわかるわけです。
しかし、「ある文字列が非文であることは証明できない」ことがすでに証明されている、のだそうで、つまり、その文字列が非文かそうでないかは、理論的に判別することができないということです。

もし、その非文を使ってコミュニケーションができるような集団があったら、ほかの集団とは意思の疎通ができないことは容易に想像できる。わけがわからないことは、わけがわからない。つまりそういうことになります。

しっかりした言語感覚は、筋の通った論理に裏打ちされている。
しかし、現実には「わからないこと」が複数存在するので、ぼくたちはときどきアタマが混乱したりしますね。そんなとき、その「わからないこと」を分析して理解しようと思ったって、そもそもわからないことは分析できない。「理解しにくい」と言ってもいいかもしれない。小椋佳さんは、その、わからないことの世界があることは大事だと、小学生に入れ知恵したんですね。

この主題をめぐっていろんな話ができるが、今日は、これに対するぼくの興味を提示するにとどめて、この雑文を締めくくることにします。
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by natsuki_emura | 2011-10-15 21:09